寛文御造営日記

 三重塔由来の記録が「寛文御造営日記」として存在していることを証明してくださったのが、日光院第五十一世祐親大僧正に他なりません。昭和28年に出雲大社に書簡をおくり、その返答として出雲大社考証課長(出雲大社古文書等の研究の責任者)であられた矢田豊雄様より「寛文御造営日記」の存在を明らかにして頂いたのです。
そして、その書簡は出雲大社から日光院に三重塔が贈られたことが詳しく記録された貴重な資料として、現在八鹿町指定文化財となっています。これがなければ「寛文御造営日記」なるものの存在が知られる事もなく、調査される事もなかったことを絶対に忘れてはいけません。書簡の一部を紹介します。

「日光院 森田祐親殿

当神社寛文造営の際、但馬妙見山日光院より、本殿の御用材を購入し大永時代尼子恒久の建立せし当社境内にありし三重塔を妙見山日光院へ送りしこと事実相違無之候。

出雲大社考証課長 矢田 豊雄」
この書簡について「大社の史話」のなかで、全文取り上げられており、第39号の中では、出雲大社権宮司、平岡松彦氏も、森田祐親師と当時の八鹿町教育委員会文化財担当者に対して、謝意を述べておられます。出雲大社にとっても、大変重要な歴史的事実として認識しておられ、日光院に対して深い縁を感じ、340年という時間を経てなお、今だ日光院と交流があるのです。

そして、この寛文御造営日記は、江戸時代の妙見信仰を客観的に記録され、但馬妙見の実像をしめした極めて貴重な資料であることが分かります。出雲大社の但馬妙見に対する認識がよく示されています。この史料の中では「妙見宮」或いは「妙見社」という言葉は一度も使用されません。「日光院」が何度も出てきます。これが事実なのです。

つまり、出雲大社は「日光院」を「但馬妙見」として認識されているのです。この出雲大社の史料を読んだ方は、非常に素直に理解できます。逆に、それ以上に解釈するという事は、客観的な歴史的資料に、主観的な感情や想像を加えることになります。一体、歴史を解釈する上で大切な事とは何なのでしょうか。

驚くべきことに、これを文化財からはずそうとする人が出てきました。信じられない事ですが、ある人が日光院まで出向き、「これは新しい物なので、文化財を辞退してもらいたい」などと伝えに来たのです。これは極めて重大な問題です。許される事ではありません。しかも、わが町の大先輩が努力された結果、文化財に指定されたものに対して、文化財の価値がないとする人がいる事自体、全く信じられません。この出来事について、大社の史話の斉藤さんや出雲大社の方にお話ししたところ、「信じられない」と驚いておられました。当然です。三重塔の本を発行する際、出雲大社の資料や、「大社の史話」を参考にしておきながら、利用するだけ利用すれば、後は自分達の都合でその価値ある「書簡」など邪魔だとしてしまうのですから。

出雲大社の考証課長であられた矢田氏の生涯を捧げた研究の中の貴重な情報など必要としない(この「書簡」が歴史すり替えの邪魔になる)という人の意識には、遺跡ねつ造で世界中を騒がせたあの藤村氏の姿が重なる人は多いと思います。

 つまり、後世の信仰心の欠落した心では、ただ単純に「事実」のみがそこに書いてあるにも関わらず、その解釈すら誤ってしまうのです。それこそ、みだりに後世の見解を付加する事は避けるべきです。我々は真実の歴史を伝える義務を怠ってはいけません。ましてや、偽りの歴史を安易に伝えることは子孫を欺くことになるのです。真実の歴史こそ私たちの郷土、但馬、八鹿の宝なのですから。