神仏習合と両部神道の意味

 但馬妙見信仰の説明に上記の語句が用いられ、歴史が歪められ伝えられています。但馬妙見
信仰が近年どのように説明され、誤解されてきたのか、その一部を解説してみます。そして正確な
語句の説明をし、同時に正しい歴史を解説したいと思います。
特に、妙見大菩薩と強引に結び付けられた名草彦命と天御中主神について解説します。

神仏習合とは

 神仏習合という言葉を正確に理解せずに使用することは、全ての解釈を誤る「基」になります。神仏習合とは、文字のとおり神と仏が習ね(かさね)合わさるということで、日本に仏教が伝来して以来、日本の神と仏教の仏が交わり融合していった状況を言います。例えば八幡神という神が、八幡大菩薩という仏として信仰されたり、天照大神と大日如来が同体として信仰されたことなどでしょう。しかしながら、平安時代以降、一般庶民は神も仏も区別無く手を合わせていたと考えられます。

 但馬妙見信仰とは、先にも説明した通り仏教に他なりません。その仏教である妙見信仰が、信仰の本質を知らない人によって誤解され解説されているのです。仮に神仏習合をもって但馬妙見信仰を説明した場合どのような無理や矛盾が生じているのか解説します。

 但馬妙見信仰が仮に神仏習合であったとするならば、当然その神社の主祭神との習合をもって考えなくてはいけません。但馬妙見について考察してみますと「八鹿町史」(昭和46年)や「名草神の三重塔」(平成9年)のなかで、「名草彦命は星の神とも北斗七星ともいわれて・・・神仏習合によって妙見菩薩と同体とされ・・云々」とあります。

名草彦命と妙見大菩薩の習合を考えた様ですが、名草彦命とは、和歌山県の名草郡の地方豪族であり、いわゆるその地方の産土神として祀られています。星や北斗七星とは全く無縁の「産土神」なのです。名草彦命と妙見大菩薩を結びつけることなど全く不可能なのです。何を根拠にそのような解釈がなされたのかまったく理解できません。つまり、宗教的知識が全く欠落した人が解説しているのです。(常識的には、活字にする以上最低限のことは調べるのが普通ですが・・)信仰心の欠落した、宗教的無知な人が、信仰というものを、あたかも知っているかのように解説している様は、当事者にとってみれば、滑稽を通り越して憤りを感じます。当の名草神社も決して「名草彦命」と「妙見大菩薩」の関係では説明していません。

つまり、歴史的背景を調べれば直ちに「無関係」であることが分かってしまう、あまりに安易な偽りなのです。そして、日本中のどこの妙見信仰をみても「名草彦命」では誰も説明することなど出来ないのです。

名草彦命は故郷の和歌山県では、名草彦命は名草姫と共に、主に子供の育成成長を守り、縁結び、夫婦和合の神としてお祀りされています。 産土神である「名草彦命」の誕生した歴史的背景からも比較的簡単に推測できると思いますが、「名草彦命」をまつる本家和歌山県の「中言神社(名草神社)」は当然「式内社」ではありません。
 ちなみに、神道において「妙見大菩薩」と同体の神といえば、「鎮宅霊符神」です。いわゆる土御門神社(陰陽道)の「鎮宅霊符神」というご神体が密教でいうところの「妙見大菩薩」に相当します。我が国では神道とされていますが、実は陰陽道のご本尊なのです。古くからそれぞれ信仰する様式で祀られていましたが、これらの関係に於いては、同じ様な背景(古代天文学など)から生まれた神仏なのですから、ある意味神仏習合と言えるのかもしれません。もっとも、陰陽道も、仏教と同じく
外来の宗教なのですが。
 この様に、神仏習合をもって「但馬妙見信仰」を説明する場合、まず対象となる「神」や「仏」の本質的な信仰の意味や歴史を知らずに、安易にそこにある「神」と「仏」を都合よく結びつけ解釈されている事など、誠に非学問的と言わざるを得ませんし、まして「信仰」という神聖なものを軽率に考察し、誤った歴史を安易に流布するなどは厳に慎むべきです。

両部神道とは

 次に両部神道という語句の説明をします。これも先と同様に正しく理解せずに使用しても、まったく誤解や混乱を生じさせる「基」にしかなりません。もっとも正しく理解していない事が既に「誤解」なのですが・・。故意に混乱を生じさせるためには、都合が良かったのかもしれません。
 真言密教では金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅という、密教の宇宙観を図に示した「曼荼羅」を教えの中心に説いています。この両部曼荼羅に書かれている仏様に神道の神様を当てはめた真言宗の神道を両部神道といいます。両部神道という名称は卜部神道の吉田兼倶(1435年~1511年)の「唯一神道名法要集」が最初とさています。つまり「両部神道」という概念が誕生し成立したのは、あくまでも西暦1500年前後の出来事なのです。つまり、西暦1500年頃を両部時代といいます。
 名草神社は、「・・天御中主神を祀るがゆえに両部神道を構成し社名を(名草神社から)妙見宮と改め・・云々」という説明がなされ、天御中主神と妙見大菩薩を結び付けています。本来なら主祭神である名草彦命との関係で説明すべきと考えますが、「名草彦命」と「妙見大菩薩」とは全く無関係であるという事は少なくとも理解されていたようです。しかし、実はこの説明こそが、「妙見宮」と「名草神社」が全く別のもので無関係であり、さらには、神社の誕生した明治という時代的背景を如実に示している非常に重要な主張なのです。
(この説明が神社側のものにも関わらず、神道学的(神社史)に非常に重大な矛盾が生じていると思われます。キーワードは天御中主神です。ごく最近まで天御中主神の歴史的な研究がまだ充分なされていなかったのしょう。その天御中主神については別項に解説しています。)
 くどいようですが、但馬妙見信仰は仏教なのです。それを仮に「両部神道」という概念で説明した場合、いかに無理や矛盾が生じているのか解説します。
 まず、時間軸で考察してみますと、但馬妙見日光院に関しては「両部神道」という概念が誕生する時代をさかのぼる事、遥か数百年前から妙見社といわれており、「両部神道」という言葉をもって説明することが出来ません。つまり、先の主張では、もともと「名草神社」という神社があったが両部神道によってある時「妙見宮」と改称した、と主張されています。
 そこで仮に名草神社が式内社、つまり古い神社であった場合、『両部神道によって「名草神社」という神社が「妙見宮」となった』とするならば、西暦1500年以前の「両部神道」という概念が誕生する以前の歴史として、「妙見社(妙見宮)=日光院」の歴史についてしては既に存在しているので、「名草神社」は「名草神社」として本来なら別に存在していなくてはいけません。
 山名宗全が戦勝祈願した妙見社の時代は、両部神道の概念が発生する以前の歴史なので、まだ石原に妙見社、つまり日光院があり、現在の名草神社のある場所に妙見さまは、まだお祀りされていませんでした。故に「妙見社(妙見宮)」の歴史と「名草神社」の歴史が同じである、という事はあり得ません。また、その日光院の歴史を名草神社の歴史に重ね合わせることなど、許されない事なのです。解説に、「山名宗全をはじめ、武将が戦勝祈願を
した」などと記載している事は、日光院の歴史をそのまま取り込んだ、非常に卑劣なやり方と言わざるをえません。
 そして、実は妙見宮と言われるようになったのも、江戸時代に慈性法親王が日光院に「妙見宮」という巨額をご寄進され、それ以降、妙見社=日光院という妙見大菩薩の霊場を「妙見宮」とい呼ぶようになったのです。それらは日本中の妙見宮が同じようにお寺であったことを意味しているのです。
 要するに、西暦1500年代以前の「名草神社」の歴史が「名草神社」として存在せず、また妙見宮と言われるようになったのも、あくまでも江戸時代中期からなのです。非常に安易な偽史と言わざるを得ません。時間軸で考察しただけで、これだけの無理、矛盾が生じているのです。
 ちなみに、島根県石見国邑智郡日和村桜井太詔刀命神社の伝記に「近江天皇仁平四年初卯日(1153年)但馬国妙見山より妙見大菩薩勧請」とされています。これはいかに但馬妙見信仰が古くから広まっていたかという事実の一端を示しています。
 次に教義面から考察してみますが、結論だけを申し上げますと金剛界、胎蔵界の両部曼荼羅に妙見大菩薩は描かれていません。つまり真言宗を全く知らない方が、単純に「両部神道」という一見便利そう?な言葉を用い、あたかも真実の歴史や信仰かのように説明しておられますが、この概念では単純に妙見信仰を説明する事が出来ないのです。そんな基本的な事ですら調査することなく、偽りの歴史を流布しているのです。真言宗の教義(両部神道)の中に天御中主神(または名草彦命)と妙見大菩薩が同体である、などという教義は当然ありません。
 あくまでも明治維新の神道国教化政策という、信仰とはかけ離れた政治的な宗教政策に過ぎないのですから、当然ながら無理のある矛盾に満ちた説明なのです。
但馬妙見信仰の真実の歴史を再認識していただくために
 真実の歴史はひとつです。偽って歴史を作ることはいくらでもできます。無知なゆえに結果として偽史となる場合と、故意に偽史とする場合があります。最近話題になった遺跡ねつ造事件にしてもそうですが、歴史教科書が書き換わるほどの「偽り」も、「信心」と「良心」と「探究心」で必ず明かされるのです。明治の廃仏毀釈から、わずか130年の間に1400年以上の歴史を有する、我が郷土の誇る日本三妙見の一つ、「但馬妙見」信仰を、如何なる理由付けをしたとしても、まして「信仰」というだれも侵すことのできない神聖な領域において真実を偽ることは許されないのです。
少なくとも、昭和30年代までの八鹿町の認識は、過去の資料を再確認した限りでも、但馬妙見が名草神社である、などという「偽り」を流布することはありませんでした。正しく妙見信仰というものを伝えるための努力をしておられました。「偽り」が人々の心に響く事などないのです。
但馬妙見とは日光院のことであり、日光院の建物がある日突然名草神社と改称されたという事実を正しく伝えるべきです。但馬妙見信仰を歪めて伝えることは、その先人達の信仰や努力を踏みにじる行為であり、但馬妙見信仰が始まって以来の有縁の数限りない信者さまに対する冒とくであり、妙見大菩薩への冒とくであり、つまり妙見信仰そのものの冒とくに他なりません。また逆に、神道の立場(名草彦命をお祀りしている神社)からすれば、全く関係の無い妙見菩薩の信仰をもって名草彦命を説明する事は、それこそ名草彦命をも冒とくしていることに他ならないという事に気付かなくてはいけません。