次に両部神道という語句の説明をします。これも先と同様に正しく理解せずに使用しても、まったく誤解や混乱を生じさせる「基」にしかなりません。もっとも正しく理解していない事が既に「誤解」なのですが・・。故意に混乱を生じさせるためには、都合が良かったのかもしれません。
真言密教では金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅という、密教の宇宙観を図に示した「曼荼羅」を教えの中心に説いています。この両部曼荼羅に書かれている仏様に神道の神様を当てはめた真言宗の神道を両部神道といいます。両部神道という名称は卜部神道の吉田兼倶(1435年~1511年)の「唯一神道名法要集」が最初とさています。つまり「両部神道」という概念が誕生し成立したのは、あくまでも西暦1500年前後の出来事なのです。つまり、西暦1500年頃を両部時代といいます。
名草神社は、「・・天御中主神を祀るがゆえに両部神道を構成し社名を(名草神社から)妙見宮と改め・・云々」という説明がなされ、天御中主神と妙見大菩薩を結び付けています。本来なら主祭神である名草彦命との関係で説明すべきと考えますが、「名草彦命」と「妙見大菩薩」とは全く無関係であるという事は少なくとも理解されていたようです。しかし、実はこの説明こそが、「妙見宮」と「名草神社」が全く別のもので無関係であり、さらには、神社の誕生した明治という時代的背景を如実に示している非常に重要な主張なのです。
(この説明が神社側のものにも関わらず、神道学的(神社史)に非常に重大な矛盾が生じていると思われます。
キーワードは天御中主神です。ごく最近まで天御中主神の歴史的な研究がまだ充分なされていなかったのしょう。その天御中主神については別項に解説しています。)
くどいようですが、但馬妙見信仰は仏教なのです。それを仮に「両部神道」という概念で説明した場合、いかに無理や矛盾が生じているのか解説します。
まず、時間軸で考察してみますと、但馬妙見日光院に関しては「両部神道」という概念が誕生する時代をさかのぼる事、遥か数百年前から妙見社といわれており、「両部神道」という言葉をもって説明することが出来ません。つまり、先の主張では、もともと「名草神社」という神社があったが両部神道によってある時「妙見宮」と改称した、と主張されています。
そこで仮に名草神社が式内社、つまり古い神社であった場合、『両部神道によって「名草神社」という神社が
「妙見宮」となった』とするならば、西暦1500年以前の「両部神道」という概念が誕生する以前の歴史として、
「妙見社(妙見宮)=日光院」の歴史についてしては既に存在しているので、「名草神社」は「名草神社」として本来なら別に存在していなくてはいけません。
山名宗全が戦勝祈願した妙見社の時代は、両部神道の概念が発生する以前の歴史なので、まだ石原に妙見社、つまり日光院があり、現在の名草神社のある場所に妙見さまは、まだお祀りされていませんでした。故に「妙見社(妙見宮)」の歴史と「名草神社」の歴史が同じである、という事はあり得ません。また、その日光院の歴史を名草神社の歴史に重ね合わせることなど、許されない事なのです。解説に、「山名宗全をはじめ、武将が戦勝祈願を
した」などと記載している事は、日光院の歴史をそのまま取り込んだ、非常に卑劣なやり方と言わざるをえません。
そして、実は妙見宮と言われるようになったのも、江戸時代に慈性法親王が日光院に「妙見宮」という巨額をご寄進され、それ以降、妙見社=日光院という妙見大菩薩の霊場を「妙見宮」とい呼ぶようになったのです。それらは日本中の妙見宮が同じようにお寺であったことを意味しているのです。
要するに、西暦1500年代以前の「名草神社」の歴史が「名草神社」として存在せず、また妙見宮と言われるようになったのも、あくまでも江戸時代中期からなのです。非常に安易な偽史と言わざるを得ません。時間軸で考察しただけで、これだけの無理、矛盾が生じているのです。
ちなみに、島根県石見国邑智郡日和村桜井太詔刀命神社の伝記に「近江天皇仁平四年初卯日(1153年)但馬国妙見山より妙見大菩薩勧請」とされています。これはいかに但馬妙見信仰が古くから広まっていたかという事実の一端を示しています。
次に教義面から考察してみますが、結論だけを申し上げますと金剛界、胎蔵界の両部曼荼羅に妙見大菩薩は描かれていません。つまり真言宗を全く知らない方が、単純に「両部神道」という一見便利そう?な言葉を用い、あたかも真実の歴史や信仰かのように説明しておられますが、この概念では単純に妙見信仰を説明する事が出来ないのです。そんな基本的な事ですら調査することなく、偽りの歴史を流布しているのです。真言宗の教義(両部神道)の中に天御中主神(または名草彦命)と妙見大菩薩が同体である、などという教義は当然ありません。
あくまでも明治維新の神道国教化政策という、信仰とはかけ離れた政治的な宗教政策に過ぎないのですから、当然ながら無理のある矛盾に満ちた説明なのです。