但馬妙見の真実の歴史
妙見信仰の歴史は非常に古く、奈良時代には一般に広く信仰されていました。つまり、それ以前には伝来していたのです。日光院の初代、日光慶重は飛鳥時代の方であります。
その後、但馬妙見信仰は、天正年間まで(初代から第三十四世)この「石原」の地で盛隆を極めました。故に但馬石原妙見ともいわれていたのです。
しかし、天正五年の羽柴秀吉の山陰征伐の兵火により一時衰微しましたが、高野山釈迦文院より、高僧朝遍阿闍梨を第三十五世に迎え、その弟子第三十六世快遍阿闍梨によって、ここ石原から西に五十丁登った妙見山中腹に日光院を再建しました。現名草神社本殿の棟札には『宝暦四年 日光院現住 宝潤』と書かれています。それは日光院第四十世宝潤阿闍梨によって完成された妙見大菩薩のための本殿、つまり日光院の本殿だったのです。
現在の「名草神社」の建物は明治9年まで日光院の建物でした。明治の廃仏毀釈によって日光院がある日突然、神社になりました。「妙見さま」は明治以降、現在の日光院にお祀りされており、妙見中腹の名草神社にはおられません。つまり、「妙見さま」を日光院から追放したあと、その本殿に「名草彦命」が入ったのです。神社にも関わらず、仏塔である三重塔があるのには、そういう歴史があるのです。本殿の建築様式も、見事な密教建築といえます。割り拝殿の天井をご覧ください。真っ黒になっています。それは歴代日光院住職が心を込めて日夜「護摩」を焚いた跡なのです。
名草神社がお祀りされていた形跡は、神社史研究においては不明です。はっきりしている事は、「日光院」というお寺が明治9年7月8日をもって、突然「名草神社」になった事だけです。そして、日光院第四十七世弘応上人と同一世帯の北垣伊佐美氏をもって初代名草神社神主とされました。
日光院は寛永9年から明治9年まで(245年間)の元の日光院の建物を妙見に残したまま、末寺の成就院と合流しその「妙見信仰」の法灯を今も大切に護っています。もちろん「妙見さん」をはじめ、仏像、寺宝などは、全て現在の日光院にもって降りました。三重塔の本尊としてお祀りしてありました虚空蔵菩薩も当然、現在の日光院にお祀りしてあります。まことに残念な事に、三重塔も、仏様をお祀りする為の仏教のシンボルにも関わらず、仏様がお祀りされていないただの歴史的建造物となってしまっているのです。
こうして現在、但馬妙見信仰は、初代日光慶重の開いた石原の地で廃仏毀釈の困難を乗り越え、再び篤い信仰を集め、今日に至っているのです。
昨今、いろいろホームページを見てみますと、誤った情報が流布されている事により、いかに但馬妙見信仰が歪んで伝わっているかよく分かります。多くの方が、本当の歴史をご存じなく、誤った情報だけを信じて、ホームページを作成されています。
近年、大変な話題になりました、あの遺跡ねつ造事件がありました。嘘が暴かれるまでは、歴史教科書まで書き換わり、多くの子供たちが、ねつ造された歴史を真実として学びました。全く同じことが、但馬妙見信仰においても行われているのです。
もっとも、遺跡ねつ造のように巧妙な手口なら、それを立証するには、大変な努力が必要だったと思いますが、こと但馬妙見に関しては、実は地元の方々をはじめ本当に信仰のある方や、但馬の歴史を研究している方には、これらの情報が偽りであることは知っているのです。
とはいえ、それ以外の何も知らない人々に誤った情報を流布しているこの行為が、どれだけ罪深い事か、よく考えなければいけません。
今回こうして、但馬妙見信仰の正しい歴史が明らかにされる事によって、誤解している多くの方に、改めて真の歴史、正しい情報を知っていただきたいと思います。