但馬妙見 日光院史年譜

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但馬妙見 歴史年譜
(西暦)
五七二年  人皇三十代 敏達天皇の御宇
     初代    日光慶重上人 此処、石原の地に一寺を築く
     二世    日上慶覚上人 
     三世    日勝覚重上人と、日光院の基礎を築く。
     四世    重明上人、伽藍を完成すべく精進している時、
           突然病に倒れ七日間もの間、あの世をさまよった。
           その時、帝釈天が現れ、「お前はまだこころざし
           半ばであり、まだはやい。直ちに戻り伽藍の完成
           に生涯をささげよ!」お告げによりこの息を吹き返し、
  寺号を「帝釈寺」とし、帝釈寺日光院となったのである。
一一五三年      島根県石見国邑智郡太詔刀命神社に仁平四年初卯日
  但馬國妙見山より妙見大菩薩勧請された。
一四四五年        山名宗全が此処石原の日光院において、妙見大菩薩に戦勝祈願。
一五二五年        尼子経久、出雲大社に三重塔を建立す。
一五三〇年        菊伏英という篤信者が、はるか明より、唐画妙見像を寄進。
  五世から三四世まで、此処石原の地に十ヶ寺の塔中寺院を有した。
一五四五年      日光院参道に不動明王の磨崖仏が刻まれる。(日光院所有)
一五七七年        羽柴秀長の山陰攻めの兵火にあい、妙見尊本殿、薬師堂を残し
                寺門一時衰微する。
        三十五世  このとき、高野山釈迦文院の高僧朝遍阿闍梨をして日光院の
                再興隆に尽力をつくす。
一六三九年 三十六世 朝遍阿闍梨の弟子、快遍上人をしてこの石原の地から西に
               五十丁(約5.5㌔)登った、妙見山中腹に、本尊妙見大菩薩を
               奉持してのぼり、日光院を移転復興した。
  つまり現在の名草神社である。
一六四八年        徳川三代将軍家光公より、御朱印地三十石を賜る。
一六六五年         出雲大社に妙見杉をお譲りした御礼に、三重塔を譲り受ける。
一六六八年      割拝殿完成。
一六九六年      寺務所完成。
一七五四年      本殿完成。棟札には、「宝暦四年 日光院現住 宝潤」と
  書かれています。宝潤上人とは、日光院の四十世です。
一八六八年      明治初年、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる。但馬妙見日光院
           にも、徐々に嵐が忍び寄る。
一八七三年      上地命令が発令され、妙見全山日光院の資産を没収される。
一八七七年     豊岡県より、「日光院の所有する不動産のみを名草神社に
          明け渡すこと」との布達が発せられた。
  日光院が名草神社となった瞬間である。
  このとき、末寺成就院と合流し、妙見信仰の法灯を護った。
一八九九年     下戻し法が発令
一九〇〇年     政府に対し、不法に取り上げられた妙見全山の日光院への
          還付申請。
一九〇三年     政府は、不法にも還付を拒否したため、直ちに行政訴訟を
          起こし、歴史的に日光院の山林である事を訴えた。
一九〇五年     僅か二年八ヶ月で、日光院の提訴理由が100%認められ
          全山日光院に復帰した。
          判決が下ったこの年の十一月以降、名草神社及び、妙見部落の
          住民より、日光院を相手どり、合計四十五件もの民事訴訟を
          神戸地裁に起こすも、これも100%日光院の全面勝訴となる。

  これをもって、名実共に妙見信仰の総本山、日光院は  
         法灯を護ることが出来たのである。