「日光院の妙見杉」と「出雲大社の三重塔」
妙見の三重塔もそこが日光院であったが故に妙見に残っているのです。
日光院が隆盛をきわめていた江戸時代、出雲大社では両部時代から唯一神道に復帰する時期を迎えました。いわゆる寛文の御造営です。神殿のご用材を全国各地に探し求めましたところ「日光院の妙見杉」に白羽の矢がたちました。
第三十六世快遍阿闍梨は「出雲大社のためならご本尊妙見大菩薩もお喜びになるでしょう」と快く引き受けました。同時に出雲大社の境内にありました三重塔を取り壊す計画を知り、「日光院も塔を建立する予定です。仏教にとっては重要なものですので是非お譲り頂きたい」と申し出たところ、逆に快くお譲りいただいたのであります。
この経緯の詳細は、出雲大社所蔵の「寛文御造営日記」に詳しく記録(次項に一部紹介)されております。また出雲大社第82代国造千家尊統氏著書で大社発行の「出雲大社」(昭和43年:学生社) によりますと「出雲大社と神仏分離」の項に『・・すなわち三重塔は但馬の妙見山日光院に移され今は国宝となり・・出雲大社境内から一切の仏教的色彩を除去した。』と記載されています。
つまり出雲大社は、公に「三重塔は日光院に譲った」としているのです。妙見の三重塔の本尊は、妙見信仰と同じく星に所縁のある虚空蔵菩薩でありましたが、現在も日光院にて大切にお祀りされています。
そもそも、「塔」とは、お釈迦様の遺骨「舎利」をお祀りすることに始まった仏教の象徴的な建造物です。お寺にあるものですが、但馬妙見日光院の三重塔は、廃仏毀釈の際この地に移転することが出来ず、やむを得ず山上に残し現在は名草神社となってしまいました。明治までは日光院だったのです。当然ながら、現在妙見の三重塔には仏様も何も祀られていません。どんなに由緒のある建物でも残念ながら明治9年以降は仏様のおられないただの建物となってしまっているのです。
毎年必ず日光院にお参りされます熱心な妙見さんの信者さんは「塔を持って降りられらなかった事が悔やまれますなあ」と、お参りされる度に言われます。当時の事情を考えると仕方なかったとはいえ、誠に残念ではありますが、出雲大社側の完全なる史料に「日光院に移転建立した」と記録されており、真実の歴史が正しく伝わっていたことに妙見大菩薩の威光を感ぜずにはおれません。
日本の木造塔婆について、大変詳細な調査をされていますHPを紹介します。
妙見三重塔についても、ただし歴史が書かれたHPです。
ぜひ、一度ご覧下さい。