但馬古事記の扱いについて
但馬史を研究する上で、重要なポイントがあります。そのポイントとは、「但馬故事記」とされる偽史の取り扱いです。その内容を検討してみますと、明らかに神道国教化政策によって作成された偽史であることが読み取れます。全く矛盾に満ちた資料なのです。これをもって但馬の歴史を語る事自体全く歴史的な解釈を誤ってしまいます。従って但馬史研究においては但馬故事記なる資料を用いて研究する事自体、信頼できない研究となるのです。
但馬の偉人の一人に、「校補但馬考」の著者、桜井勉氏が挙げられますが、氏は明治34年(1901年)には内務省神社局長となり、明治政府の神社行政をはじめ、あらゆる政策に大きく関与した人物です。兵庫県の成立もこの桜井勉氏の考えが影響し、現在の地域が兵庫県となりました。
その桜井勉氏が著書のなかで、但馬故事記について「所謂、偽史であり資料として語るに及ばず」と筆勢鋭く論断を加えています。つまり、「但馬故事記」なる「偽史」を引用している時点で「偽り」ということが断定されるのです。
但馬故事記・養父郡故事記より抜粋
「人皇三十代敏達天皇五年六月若足尼ノ命の甥、高野ノ直夫幡彦を以て夜夫郡司となす。高野ノ直夫幡彦は紀の国、名草郡の人なり。此の御代、仏信じ、国の祭りを軽んず。是に於てか、諸国に悪疫流行し、穀実不登、人多く死し、民之に苦しむ。天皇詔して、神祇を崇敬す。郡司、高野ノ直夫幡彦は、此の災害を払わんと欲す。十四年夏五月、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神・及び己が祖、大名草彦命、の凡そ七座をまつる。」・・・云々。
そうです。名草神社の始まりを伝えるとされている原本は但馬故事記なのです。この事については、名草神社宮司であられる井上憲一氏自らの執筆(昭和31年発行:八鹿町観光協会・「但馬妙見」 30項 名草神社沿革に記載)にて明らかとなっています。
何度も言いますが、この時代(敏達天皇の時代)に、天御中主神が祀られる事は神社庁の神社史研究上もありえません。
仮にも、公(おおやけ)の印刷物である、旧八鹿町発行の名草神社のパンフレットにもこの「但馬古事記」なる偽史が引用されています。特に「但馬史」を研究している人間がその事実を知らないはずがなく(知らないとなれば、何を根拠に但馬史を考察しているのか甚だ疑問なのですが)、その偽史を子孫に伝える意味をよく考えなければいけません。
但馬の偉人、桜井勉氏がこれを見れば、さぞ驚かれることでしょう。
誰が見ていなくても「お天道さま」は見ていらっしゃるのですから。そういう謙虚な気持ちを日本人の「文化」といい、「根っこ」というのです。『文化を大切にしない町に新たな発展はない』と、八代妙見、妙見大菩薩の信者でもある、元内閣総理大臣の細川護煕氏も講演の中でこの様に述べておられます。