妙見宮について

妙見宮(或いは妙見社)とは、妙見信仰の霊場を意味します。「宮」といえば神社というイメージがありますが、これは明治の宗教政策によってその様なイメージが強くなってしまったのです。日本中の妙見大菩薩を本尊としていた霊場は同じように「妙見宮」と称されていました。  

八代妙見も、本尊は妙見大菩薩であり妙見宮でした。ところが、明治の廃仏毀釈によって「妙見宮」、つまり妙見菩薩をお祀りしていたお寺は全て取り壊され、ご本尊妙見大菩薩も取り去られ、代わりに天御中主神が祀られる様になりました。妙見信仰という仏教の信仰を否定し、名称も「八代神社」になってしまいました。

但し、八代の人々の心の中には妙見信仰がしっかり残っております。「八代妙見祭り」という熊本三大祭りの一つがあります。この妙見祭りは八代神社のお祭りなのですが、お祭りの本尊は当然妙見大菩薩という仏さまです。このように明治の宗教政策によって信仰と祭祀に歪みが生じてしまいました。

しかし、「八代妙見宮」を「八代神社」とし「妙見大菩薩」を「天御中主神」として歴史を作ったとしても、人々の心まで偽ることなど出来ない証として、「八代妙見祭り」が今なお盛大に行われ、決して「八代神社祭り」とは言わないのです。

但馬妙見は、仏様である妙見大菩薩をお祀りしている「日光院」というお寺を、信仰する人々が「妙見社或いは妙見宮」と呼んでいました。そして、現在も妙見宮とは日光院のことを言います。その「妙見宮」の本尊は当然「妙見大菩薩」なのですから、日光院としては「妙見宮」と言われていても当然であり、殊更「お寺ですよ」と説明する必要などありませんでした。もっとも、一般の方は明治以降の現代の感覚で考えますと、仏をお祀りするのはお寺さんで、神様をお祀りするのは神社或いはお宮さん、という感覚ではお寺が「妙見宮」と言われていたことがすぐには理解できないかも知れません。

先にも説明した通り、慈性法親王さまが、日光院に「妙見宮」という巨大な額を寄進されているのです。もっともそれ以前は「妙見社」と言われていました。そして、妙見宮の本殿(現在名草神社の本殿)の棟札には「・・宝暦四年 日光院現住 宝潤」と記されています。宝潤とは日光院の第四十世のことです。妙見宮の本殿とは日光院の本殿であり、このように、先徳が残しておられるあきらかな証拠があるのです。これをもって、如何に解釈すれば神社であったと言い得るのか理解出来ません。  

また「妙見宮別当日光院」という表現が用いられた事もありますが、「神仏混淆」の概念を理解せずに「別当」という言葉を使用しているのですから、これも全く理解に苦しむ表現です。「神仏混淆」と「神仏習合」は、全く違うことなのです。決して同じではありません。仏教が伝来したとき、神道と仏教の間に対立・緊張が起こり、仏教弾圧が行われました。しかし聖徳太子以降の七世紀になると緊張関係はなくなりました。我が国の神もまた仏教を信仰し仏道修行をされる、といった考えかたが次第に成立し、日本の神と仏教の仏が平和的に共存を始めます。この関係を「神仏混淆」というのです。

別当寺とは、神社の中或いは近くに造られたお寺を指し神宮寺と同義語です。その役割といえば神社にお祀りされている神様の前で神前読経を行い、神様に仏法を教え聞かせることでなのです。一番有名なのが、福井県小浜の神宮寺でしょう。別当というからには、神宮寺のように神様が本尊として(ご神体として)お祀りされなければいけないのです。  

「妙見宮」とは「日光院」の事ですし、「妙見宮の本尊」は「妙見菩薩という仏様」です。仮に日光院が妙見宮の別当であったとするなら、「妙見さん」という仏様に仏法を教え聞かせるということになります。全くおかしな話になってしまいます。つまり「妙見宮」の「別当」などという関係は成り立たないのです。

つまり、神仏混淆と神仏習合の意味の違いを知らずに、「別当」という言葉を使用しています。この様に信仰の本質を知らずに適当で曖昧な表現をする事は、全く知らない人達に誤解を生じさせ偽りの歴史をあたかも真実の歴史として伝えてしまう、非常に危険な行為なのです。  

「神仏習合」の概念で妙見宮と名草神社を結びつけて説明したかと思えば、一方では「神仏混淆」の概念をもって但馬妙見日光院を説明しようとしています。語句の意味をよく知らずに、妙見信仰を無理やり説明している証拠なのです。つまり「存在しない歴史」を正当化するためには、おのずと無理が生じるのです。

前の記事

妙見とは

次の記事

日光院寄席のご案内