但馬妙見 日光院縁起

 明治以前は当院を石原山帝釈寺日光院と称しましたが、明治時代に山号を改め寺号を撤して妙見山日光院となりました。石原山とは現寺域に対する総称で、いわゆる妙見山(石原)とは全て日光院の旧境内であります。当院は飛鳥時代敏達天皇(572年)のころ、日光慶重の御開創に始まります。第二世慶覚、第三世覚重を経て、第四世重明の時代に本尊妙見堂及び、本地仏薬師瑠璃光如来を本尊とする薬師堂が、この地(石原)に建立されました。  

 我が国において妙見大菩薩の霊場は数多くありますが、当山こと但馬国の石原妙見(略して但馬妙見)は霊符縁起によりますと、下総国の相馬妙見、肥後国の八代妙見と共に日本三妙見の一つとされています。中国近畿地方一帯の妙見尊を奉祭する寺社の総本家として多くの人々の信仰を集めていました。

 このころ当院は盛隆を極め、塔中に成就院、薬師院、蓮光院、地蔵院、宝持院、弥勒院、明王院、歓喜院、宝光院、岡之坊の十カ寺を有し、別に求聞持堂、護摩堂、仁王門など全備し、また、西方五十丁山上に、奥の院(現在の名草神社の地)を有し、石原全山にわたる構想実に雄大な山陰随一の一大霊場でありました。まさに日域伽藍開基記に示すが如くであります。霊符縁起に「日本三妙見とは但馬国石原妙見、肥後国八代妙見、下総国相馬妙見をいう」と伝えられていることは、誠に所以あるといわねばならないでしょう。  

 即ち、当山は中国近畿地方一帯の妙見尊を奉祭する寺社の総本家でありますが、いくつか例をあげますと、島根県石見国邑智郡太詔刀命神社の伝記に「仁平四年初卯日(1153年)但馬國妙見山より妙見大菩薩勧請・・云々」とあり、また和歌山県伊都郡四郷村妙見神社、兵庫県多紀郡北河内町天台宗弘誓寺妙栄講本尊、また能勢妙見もその一つと伝えられています。またその霊名は遠く遥かに大陸までつたわり、明朝の嘉靖年間(1530年)に菊英伏なる篤信者は当山に妙見尊の画像を寄進しています。いわゆる唐画妙見像のことです。

  鎌倉時代以降、妙見大菩薩に対して特に武門将士の信仰が盛んとなり「日光院文書」(県指定)として伝わる鎌倉室町時代の古文書百数十通のなか、文安二年(1445年)の山名宗全公、山名四天王等の祈願状、寄進状等からも明らかなように、武家をはじめとする諸国信者の寄進が相次ぎ、因幡、播州、但馬、丹後、丹波の五郡にわたって荘園を有し一千町歩の妙見山といわれ、成就院をはじめとする塔中寺院は十坊を数えました。まさに一山隆盛を極めたのです。

 しかしながら天正五年の羽柴秀吉の山陰攻めの兵火にあい、妙見尊本殿、薬師本堂のみを残し灰燼と帰し寺門一時衰微しました。この間、初代から第三十四世に至ります。ここに於いて高野山釈迦文院の高僧朝遍阿闍梨は、当院第三十五世を兼務し復興に尽力され、ついで其の弟子の快遍阿闍梨を第三十六世として大いに興隆されました。寛永九年(1632年)には、奥の院に妙見大菩薩を奉持して登り日光院を妙見山の山腹に移転復興されました。(現名草神社の本殿は、日光院第四十世宝潤によって宝暦四年に完成されました。そこが日光院本殿であった証拠なのです。)

 旧域には成就院のみを復興して旧伽藍域の経営にあたられました。そして慶安元年(1648年)九月十七日には徳川三代将軍家光公より御朱印地三十石を賜わりました。まさに旭日昇天の盛運をむかえたのです。後述しますが、現在国指定重文に指定されている妙見三重塔は、この快遍時代に出雲大社より日光院に移転建立されたことが、出雲大社所蔵の「寛文御造営日記」に記録されています。つまり、お寺である日光院に三重塔が贈られたのです。

 また、慈性法親王は「妙見宮」と題する巨額を日光院に寄進されました。これは妙見大菩薩の霊場である日光院を「妙見宮」と称したためです。この額は、現在も日光院の拝殿に掲げてあります。全国の妙見信仰の霊場は同じように妙見宮といわれていました。このように徳川時代には雄大な妙見全山を伽藍とする山陰随一の名刹となりました。  

石原山縁記