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小佐谷の弾丸列車!

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八鹿町のふるさと歴史講演会を聞いてきました。
その中で「小佐谷の弾丸列車」という演題で、
伊佐小学校の児島直記先生のお話がありました。

妙見杉をあの険しい山から搬出するのに用いた
杉の重さだけで八鹿駅まで駆け下るという
とてつもない列車がこの町を駆け抜けました。

大正時代の軌道の遺跡を、スライド形式で
大変分かりやすく、興味深くお話くださいました。
実際に軌道跡を歩かれたご努力と熱意に大変感激しました。



そこで

なぜ、小佐谷を弾丸列車が走る事になったのか
歴史的な背景を追加し解説してみたいと思います。

この歴史は日光院の歴史の1ページそのものなのです。
三重塔と同様に、日光院を抜きでは語ることの出来ない歴史なのです。
そのポイントを年代順に示します。



明治初年
神仏分離令、つまり、仏教弾圧である廃仏毀釈が起こります。
全国で、取り返しのつかない蛮行が、国学者や、一部の神職の指導のもと
激しい仏教弾圧が始まりました。



明治5年6月23日
妙見全山を所有していた但馬妙見日光院は、「社寺有山林原野上地命令」という、
明治政府の全く理不尽な政策、現在では到底考えられない命令が出されました。

つまり、明治政府は日光院の唯一の資産であった妙見山を
不法にも全部取り上げたのです。

その後、明治9年7月8日をもって廃仏毀釈により、
日光院が名草神社にされたのです。



明治32年
先の理不尽な命令から実に28年の歳月が過ぎました。お寺の基本資産を全て
奪われた苦難の28年の後、「国有土地森林原野下戻法」がようやく発布されました。
不法に取り上げた土地を、元の所有者に返還するという法律です。



明治33年6月13日
先の法律の発布をうけて、日光院は農商務省に対し妙見山還付の申請をしました。



明治36年10月20日
3年4ヶ月もの間も待たせた後に、明治政府は
この申請に対し、またしても不法にも不許可の指令を下してきました。



明治36年10月25日
日光院は、直ちに(不許可の指令の5日後)、政府を相手に行政裁判に提訴しました。



明治39年6月23日
僅か2年8ヶ月後に、日光院の提訴理由が100%認められ妙見全山が日光院に帰する事に
なりました。これにより妙見杉を伐採し、裁判報酬と日光院の再興隆の資金に当てられたのです。

不法に妙見山を取り上げられてから、日光院に返還されるまで、
実に35年もの年月が流れていたのです。



明治44年12月28日
日光院と東京の大宝正鑑が契約を結びました。


つまり

小佐谷の弾丸列車の依頼主は日光院なのです。
日光院の歴史の1ページそのものであった理由がお分かり頂けたでしょうか。

石原、椿色、日畑、加瀬尾の住民のお年寄りに、
この事実を知らない人はいません。



本日の資料の中に、なぜか?名草神社の写真がありました。
以上、説明した通り、「小佐谷の弾丸列車」と、名草神社とは全く無関係の話なのです。

また、資料の中に「神仏分離により、山の所有権で神社とお寺と軋轢を生じた」
との記載がありましたが、「軋轢」と表現されている事の真相を文献的に考察し解説します。

(参考文献・・・八鹿町発行:八町史下巻、八鹿町観光協会発行:但馬妙見、兵庫県発行:兵庫県史ほか)



先に示した通り行政訴訟により妙見全山が日光院の所有である事が証明されました。
その判決が下った明治39年の11月14日以降、
神社側は日光院を相手に、実に45件もの民事訴訟を
次々と神戸地裁に起こしたのです。

そして、神社側の要求とは「妙見全山を名草神社に返還しろ」というものでした。
返還とはこれ如何に?全く意味が分かりません。

ここで、よく歴史を振り返ってみてください。

日光院が名草神社にされたのは、
先に示した通り、明治9年7月8日の事なのです。

つまり、上地命令が発布された明治5年にはまだ名草神社は存在していないのです。
その、存在していなかった神社に「返還」という意味が分かりません。

先の行政訴訟で「但馬妙見は日光院であり、妙見山は日光院に帰する」と、
歴史的検証の結果、司法が判断した判決に対して名草神社側は
日光院を相手取り民事裁判を起こすのですから、全く理解できません。

当然ながら全て日光院側の完全勝訴でした。
ただの一つも不当な訴えを司法は認めませんでした。
これが現在「軋轢」とか「紛争」などと表現されている事の真相なのです。

お分かり頂けたと思います。

歴史上、日光院側はただの一度も神社側など
相手にしていません。訴えたり責めたりした事実も全く無く、
あくまでも政府や裁判所に対して妙見信仰という信心と
正しい歴史を訴え続け、抗議しただけなのです。

その歴史をよく知らない方が、「軋轢」とか「紛争」などと表現しているのです。

「但馬妙見とは日光院のことである」
「但馬妙見社とは日光院のことである」
「従って、妙見山は全山日光院に帰する」
と司法も証明しているのです。それ以上の事実が無いのですから、
当院としては、それ以上何も言うことは無いのです。

事実は唯一つなのです。

その詳細を述べることはここではこれ以上差し控えますが、
もし知りたければ裁判記録を調べて頂ければ全て明らかになります。

以上

くれぐれも誤解の無いように、子供達に正しい歴史を伝えていって頂きたいと思います。




ちょっと想像してみてください。
妙見信仰の法灯をただひたすら守ってきた先人達の苦労を。

35年もの間、殆んど収入も無く、皆さん、どうやって生きていく事ができますか。
檀家さんも、信者さんも、必死でこの困難を乗り切る努力をしてきたのです。

明治の廃仏毀釈で日光院を捨ててしまえば、こんな苦しみを味わう事は無かったでしょう。
しかし、殆んどの檀家や信者の皆さんは、どんなに苦しくても辛くても、
妙見さんを信仰する「信心」を捨てることは無かったのです。

現在も日光院には沢山のご先祖さまをお預かりし、供養させて頂いております。
今日があるのは、このご先祖さまのおかげと、唯ひたすら感謝、感謝の毎日です。
そして回向するたびに、この苦労を正しく子孫に伝えなくてはいけない、と使命を感じるのです。

時代は流れても、真実の歴史は唯一つ、変わる事はないのですから。




 

日光院の弾丸列車
 
門前村の形成と配札