星に願いをかけるお寺 開運 厄除け

高野山真言宗 但馬妙見 日光院

霊験あらたかな妙見大菩薩の一大霊場 但馬七福弁才天 招福弁天 山名宗全祈願所「杉と星のお寺」

但馬妙見における廃仏毀釈

 明治維新政府の宗教政策、神仏分離令(廃仏毀釈)ほど日本人の精神や文化を切り裂いてし
まった事はありません。神仏分離とは、神道を我が国の宗教とするという名目の宗教政策でした。
本来は、お寺と神社を分けることが大義名分でしたが、実際には仏教弾圧でした。日本中で取り
返しのつかない悲劇が一部の国学者や神職の指導のもとに行われたのです。

あの奈良の興福寺という屈指の大寺も、あっという間に叩き壊され、今は国宝となっている五重塔も
わずか五円で叩き売られましたが、解体するのに三十円かかるとの事で壊されずに残ったのです。

梅原猛氏によれば、「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあった
だろう」と考察しています。如何に日本の文化を無残にも破壊されたのかが伺われます。あのイスラ
ム原理主義タリバンが、世界遺産に登録されていたバーミャンの巨大石仏を破壊しましたが、日本
では約130年前にもっと大規模な蛮行がなされていたのです。
 
 
 
 

  ここから、元の日光院(現名草神社)までの参道にお祀りされていた丁石地蔵さまです。五十丁あったので五十体のお地蔵様が祀られています。これも明治の廃仏毀釈以降、妙見さんの信者さん、檀家さんによって、この地に全て集められました。つまり、妙見さんが、この地に降りられたので参道を登る事がなくなる事を思い、今まで見守って下さっていたお地蔵様を妙見さんの所に一緒にお祀りしたのです。まだ、妙見山にはその名残のお地蔵様があちこちに残っています。林道脇の磨崖仏も当然日光院の仏様(お不動さま)なのです。

 

 

 


但馬妙見における廃仏毀釈という蛮行
 日光院縁起に記したように江戸時代は盛隆を極めていたのですが、明治に悲劇が起こりました。
廃仏毀釈の嵐がここ但馬妙見にも吹き荒れました。我が但馬妙見においては、妙見信仰(仏教)
の否定、抹殺でした。政府は但馬妙見日光院(妙見宮)の本尊は、「唯佛宗の佛尊に他ならず」
(兵庫県史)つまり「妙見宮帝釈寺日光院の本尊は紛れもなく仏教の仏である」としながら、当院を
神社にするべく画策しました。

当院は政府に対して妙見信仰の本質を抗弁しましたが、明治5年には不法にも上地処分を命ぜら
れ、妙見山寺有林全部を没収されました。翌6年2月には遂に強制的に妙見宮を名草神社と改称
させられました。ここに、但馬妙見日光院の歴史上初めて、お寺の中に名草神社という神社が突然
発生し、名義の上で並立する事になったのです。(妙見宮 帝釈寺日光院 → 名草神社 帝釈寺
日光院とされたのです。)
 
こうして政府は、敢えて本尊妙見大菩薩を妙見信仰とは全く無縁の名草彦命と称し、日光院を
名草神社としようとしたのです。当初は住職と同一世帯のものが神主として奉務することになって
おり、第四十七世弘応上人と同一世帯の北垣伊佐美をもって初代名草神社の神主とされましたが
遂に明治9年7月8日には豊岡懸から「寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを神社に明け
渡すこと」との布達が発せられました。これをもって名実共にお寺を神社にせよ、との命令でした。
 
まさに但馬妙見信仰にとって最大の危機をむかえたのです。この時、但馬妙見信仰を守るために、
九鹿村から奥の小佐谷中の人々や諸国信者、数百人が午前5時に山上に集まり、妙見七尊体尊像
を始め全ての仏像、教典、法具、蔵書等、寺宝を護持し、鐘楼以外の日光院の建物のみを山上に
残し、元の日光院が寛永年間まであった山麓の石原に降り、末寺成就院と合流しました。
(つまり、日光院の建物がそっくりそのまま、明治9年に名草神社にされたのです。)
 
 その後、下げ戻し法が発布されると同時に、日光院は但馬妙見信仰を護るため、直ちに政府に対
し行政訴訟を起こしました。そして、「妙見宮とは日光院の事である」「但馬妙見とは日光院の事で
ある」という事実を根拠に、明治39年奇しくも妙見尊の縁日に全面勝訴を宣せられ、不法に取り上げ
られていた前記山林は全て寺有に復帰しました。正しい但馬妙見信仰の歴史が司法によって証明
されたのです。
(「兵庫県史」平成10年兵庫県発行、「但馬史」宿南保氏著書・昭和54年のじぎく文庫発行、「但馬
妙見」昭和31年八鹿町観光協会発行、等参照)

 ここに1400有余年の歴史を有する日光院そして妙見信仰は、妙見大菩薩のご利益と厚い信仰に
よって廃仏毀釈という困難を乗り越え但馬妙見信仰の法灯が護持されました。そして今日の日光院
に至るのです。
 
 寛永9年から明治9年(245年間)までの但馬妙見日光院が、如何に盛隆を極めていたかを伝える
建物として、妙見大菩薩である七曜紋(北斗七星)を残したままの極彩色の装飾の本殿や、真っ黒
に焦げた天井の割拝殿(護摩堂)など、江戸時代の建物にも関わらず県の重文として、また仏教の
象徴である三重塔も国の重文として共に、現在は名草神社となり存在しているのです。

 この様に、三重塔をはじめ、密教寺院建築の特徴を見事に伝える建物が現存しているという事実
は、かの廃仏毀釈によって全国の多くの寺院が礎石も無いほど破壊された事を考えますと有り難い
事なのかも知れません。そういう意味でいつまでも大切に保護していただきたいと思います。

因みに妙見宮本殿(現名草神社本殿)の棟札には、「・・宝暦四年 日光院現住
宝潤」と書かれています。宝潤とは、日光院の第四十世の事です。いつ誰によって建立さ
れたか明らかに記されているのです。何の疑う余地もなく明らかに「日光院の本殿」なのです。
京都大学(建築家)の友人は名草神社を拝見して「見事なお寺ですね」と感想をのべていました。
さすが一流の建築家は歴史を知らずとも建築様式だけで正しい歴史が分かるものなのだ、と関
心しました。

 
廃仏毀釈について