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門前村の形成と配札

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(以下は、参考文献:八鹿町史上巻 504項から抜粋しました。)


門前村の形成と配札


帝釈寺の本拠が妙見山上に登ったのに従って、配札人たちも山上に登り、門前村を形成した。
現在の妙見部落である。(つまり、妙見部落の成立は江戸時代なのです。)

配札人というのは、妙見社のお札やお守りを信者たちへ配布して回る人たちである。中世には配札は、成就院をはじめとする十カ寺の僧がおこなっていた。しかし、寛永三年からは人をかかえ、彼らに配札をおこなわせることにしたのである。

配札人達は山上に登るとともに、諸国から妙見社に参詣して「おこもり」する人たちの宿舎を引き請けることになった。そこで寛永十一年に宿舎を明示する意味において、お札の上包紙に各自の名前を記すことを帝釈寺に願い出て許された。(妙見社が日光院であった証拠です)

配札にあたって、寺が禁じていた第一のことは、寺にかくれて各自の家で造ったお札を配る事である。寺はこのお札を「にせ札」とよんでいた。長い年月の間にはこの禁制を破るものもあらわれる。文化十一年にはこれが発覚して門前村を追放された作次は、翌十二年に寺社奉行所へ訴え出た。

去る文化十年十一月には門前村の者たちは、寺へ対し、寺の家来百姓ではなく、神職であると申し出ていた。作次は神職を追放する事の不合理を訴え出たものであろう。

これに対し、

門前村の者は宗門改帳にも百姓と記載されている。従って百姓である。したがって配札の
  際、
加持祈祷をおこなうのは違法であるから禁じられたい。

「にせ札」造りを制するために、配札檀所の家数の明細を生野役所を通じて提出させて
  もらいたい。

上包紙に配札人の名前を書くのを禁じ、帝釈寺の名のみを記するように命じられたい。





以上の三点を反対に訴願したのであった。
寺の訴えが聞きとどけられ、文化十三年十月に門前村の配札人三十二名は、次に解題した「御請一札」をしたためて寺へ提出した。


 


、御公儀から仰せ出されたご法度は言うに及ばず、当山の御禁制も堅く守り、今後は
  牛王御札守は檀所に必要な数だけ寺へ申請して受け冥加銀は、庄屋が取り集めて
  十二月限りに上納する。
  他国へ回檀(檀所を回ること)する時は、帯刀し、国内は脇指のみを帯びる。
  私用で出向くときは他国・国内とも帯刀しない。

 
、回壇の際、神職・社人・御師と心得て加持祈祷をし、その方便をもって御札守をつくって
  配った
り、銘々の家から牛王御守を差し出すなどは禁じられていたことだが、このたび
  また厳重に申し
渡されたので堅く守る。参詣人が御札守を申請したときは、寺へ願い
  出てうける。

 
、当山へ登る道は入念に掃除する。御用の日役のときはさっそくにまかり出る。また道の
  傍に薪
は積まない。文化十一年(1811年)に参詣人の煙草の火が、中瀬道そばの
  薪に燃えうつり、あ
やうく対価になりかかった例があるからである。日役は四月と六月の
  祭礼前十日ずつは課せら
れない。以上の仰せ渡しを承知した。
 
、近年心得違いの者が出て、自分で作った札を配ったりしたが、今後もこのようなことを
  行うもの
が現れたなら、御預けの壇所ならびに家屋敷をとりあげられて追放され、五人組
  村役人までお
咎めを受けることを承知した。もっとも壇所のことについては、寛永年中か
  ら相続していることで
あるし、宝暦十三年に本殿再建の勧化帳を配札人に渡すにあたっ
  て宝潤上人は、今後いわれ
なく壇所を取り上げることは決してしないとの約束をしたので
  あるから、ながく相続するように。そ
して回壇の権利は門前村の者相互においては質入れ
  することも勝手であるけれども、他所のも
のへは決して質入れしないようにとの仰せを
  承知した。
 
、境内に開いている山畑には、稲を植えつけているところもあるので、冥加米を差し上げて
  きた
が、宝暦十一年(1761年)からこれが滞っている。このたびの吟味にしたがっ
  て、今後は、地味
双方の見取米を庄屋が集めておさめる。
 
、寛永年中に諸国回壇を願い出たときには、門前村の家数は十一件であったが、現在は
  三十軒
余りになった。壇所を細分することは困窮の基であるから、今後は分家しないよう
  にとの昨年の
仰せを承知した。余儀なく分家を希望するときは、寺の指図をうける。
 
、門前地の者の中で百官名、太夫名を上包紙に記している者があるが、神職と紛らわしい
  ので
改名するようにとの仰せにしたがい、改名する。
 
、毎年宗旨人別帳を差し出すとき、当山御条目御請書も出さねばならないが、愚昧のため
  書き
したためがたいと申し出たところ、寺が読み聞かせ、印形をとろうと仰された。
  この方法を願う。
 
、庄屋役を勤める者はこれまで無給であったが、今後は家別に一日ずつ庄屋へ日役を
  差し出す。




以上、合計九ヶ条の反省をしたためてお寺に提出しています。(以上、八鹿町史 上巻504項)

 旧八鹿町教育委員会発行の名草神社のパンフレットには、「苗字、帯刀が許された神職」となっていますが、以上からも明らかなように、妙見部落の配札人とされる人は、神職とは認められず、苗字、帯刀など許されていないのです。

 ましてや、牛王御札守の発行が日光院であることが明白であるにも関わらず、近年鳥取県の若狭で発見されたお札は、名草神社に持っていかれました。一体、八鹿町文化財担当者の歴史に対する認識は、どうなっているのでしょうか。(もっとも、にせ札であれば、お寺のものではなくて、配札
人のもの、という解釈であったのかも知れませんが・・そういう理由以外に考えられません)
思い込なのか、知らないのか、意図的なのか全く知りませんが、以上のように歴史を語っているその姿勢は他の八鹿町の歴史についても、再度検証が必要かもしれません。一事が万事といいます。
私達はよほど気をつけて情報を収集しなければならないでしょう。

 大社の史話の斉藤氏も全く同じ感想を述べておられました。歴史を伝える上で大切な事は、ありのままの歴史をありのまま伝える事であり、誤りは素直に訂正する事で、事実、出雲市、大社町などの歴史について、誤りがあれば、直ちに検討し正しい歴史を伝える努力を絶えずしておられるとの事でした。「八鹿町の歴史担当の方は、もっと謙虚になるべきでは」とのご意見を頂き、私も同様に思いました。