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霊験あらたかな妙見大菩薩の一大霊場 但馬七福弁才天 招福弁天 山名宗全祈願所「杉と星のお寺」

名草神社の誕生と日光院の弾丸列車

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小佐谷を弾丸列車が走りました。即ち、妙見杉の伐採です。



妙見杉の伐採と廃仏毀釈をあわせて解説してみます

政府は、日光院という妙見信仰の霊場を
徹底的に抹殺しようと画策しました。

全国的に起こった廃仏毀釈の嵐は、殆んどが明治初年から数年で終息しました。
ところが但馬妙見日光院は、一筋縄では行きませんでした。

檀家や信者さんの厚い信仰と莫大な資産によって
廃仏毀釈の嵐をも何とか凌いでいました。

しかし、神社が誕生する素地が先の上地命令で生じたのです。
政府は実に強引に、しかも巧みに妙見信仰を抹殺しようとしました。

明治初年に神仏分離令が発布されてからも
妙見信仰の法灯を守ってきた人々の間にここで亀裂が生じました。

つまり、日光院の所有する妙見山が上地命令により
全て取り上げられたのですから、お寺の魅力が半減したのでしょう。

政府は、檀家、信者(ごく一部)を分裂させる事に成功しました。


神社側が日光院に対して訴えた内容を
ここでもう一度思い出してみてください。


「妙見全山を神社に返還しろ」


つまり、上地命令が出された事によって、妙見山が
神社の資産になることが約束されていた事が分かります。

日光院は経済的に窮地に追いやられた後、明治9年7月8日
ついに日光院の建物のみが強制的に名草神社にされました。

つまり、妙見信仰を捨てた結果、名草神社が誕生したのです。
この時、もはや三重塔を石原に持って降りる体力が残されていませんでした。